ダニエル・クレイグ・イオンプロ5作品■
 
■ 第21作 007 カジノ・ロワイヤル 
Casino Royale
 2006年 英・米
監督/マーティン・キャンベル
製作総指揮/アンソニー・ウェイ、カラム・マクドゥガル
製作/マイケル・G・ウィルソン、バーバラ・ブロッコリ
脚本/ニール・パーヴィス 、ロバート・ウェイド、ポール・ハギス
音楽/デヴィッド・アーノルド
主題歌/クリス・コーネル
撮影/フィル・メヒュー
編集/スチュアート・ベアード
プロダクション・デザイン/ピーター・ラモント
タイトル・デザイン/ダニエル・クラインマン
●舞台/マダガスカル、マイアミ、モンテネグロ、ベニス
●敵/ル・シッフル(マッツ・ミケルセン)
●ボンドガール/ヴェスパー・リンド(エヴァ・グリーン)
 イオンプロのまさに大博打。もうフレミングの長編はリメイク以外にあり得ないと思っていたのが、まさかの「カジノ」原作収得。
 ダニエル・クレイブの大抜擢も、フレミング原作第1作が手に入った幸運が背景にあるのは間違いない。これでシリーズを1から立て直せる。

 出来あがりは原作を中間と最後に持ってきて、始めと最後にありきたりのアクションを繋いだ。まだこの時点では、シリーズをひっくり返してはいない。
 プレシークエンスは特に驚くほどではなく、ただこれまでのガンバレルを変更。タイトルバックは斬新で良い。
 ただ”シリアス路線です”という感じはヒシヒシと伝わって来る。

 マダガスカル設定のビル工事現場アクションもべつにボンドである必然性は無い。『アクション凄いでしょ?』ああそうですか・・という感じです。
 マイアミ空港のアクションも、”ダイハードですか?”という雰囲気。「ボンド映画」らしさは無い。
まだダニエルボンドは出来あがっていない。リアリティを追求したのか、カジノ場の舞台のしょぼさは何でしょう?

 「カジノ」のテーマはハッキリしており、原作どおりの拷問シーン、これが本来の007。ただ原作のまま。映画としてまだ立っていない。
 ボンド映画として許せないのは、マダガスカルならマダガスカル、ウガンダならウガンダ、モンテネグロならモンテネグロへ、引きの絵ぐらいは、実際の風景を撮りに行くべき。

 チェコとパインウッドスタジオの庭で中身を誤魔化すのはいいけど、”世界各地に出張してます””ついでに観光です”は、ボンド映画の本来のスタンスだ。それが本作では欠けている。
 これは「カジノ」に始まった事では無い。ブロスナン時代から始まった悪しき誤魔化し。世の中がグローバルになってもその土地の空気は違うんだ。それを描かずしてどうする。

 まあ作品は良く出来てます。原作のお陰で。
 ボンドが「テロリストが闊歩する、これはヤバイ」なんてセリフ、そんなボンドの設定、原作でも映画シリーズでも無いし、新ボンドの設定としても『はぁ?』となる。
 結局、ダニエルボンドが花開くのは、「スカイフォール」までかかることになった。
●極私的注目点
・コンセプトを変えたタイトルバック。テーマは「格闘とカード」
・駐車場で係員と間違えられ引き受けるシーン。
・人体博物館で、人ごみの中、敵にナイフをゆっくりと押し返すシーン。
・シャワーでヴェスパーをいたわるシーン。
・「ネーム・イズ・ボンド・ジェームズ・ボンド」で決めるラスト。
 
■ 第22作 007 慰めの報酬   
Quantum of Solace 
2008年 英・米
監督/マーク・フォースター
製作総指揮/カラム・マクドゥガル、アンソニー・ウェイ
製作/マイケル・G・ウィルソン、バーバラ・ブロッコリ
脚本/ニール・パーヴィス、ロバート・ウェイド、ポール・ハギス
音楽/デイヴィッド・アーノルド
主題歌/アリシア・キーズ、ジャック・ホワイト
撮影/ロベルト・シェイファー
編集/マット・チェシー、リチャード・ピアソン
プロダクション・デザイン/デニス・ガスナー
タイトル・デザイン/MK12
●舞台/シエーナ(イタリア)、ハイチ、プラハ、ボリビア、ロシア
●敵/ドミニク・グリーン(マチュー・アマルリック)
●ボンドガール/カミーユ(オルガ・キュリレンコ)
 監督が製作前、”これまでのような観光映画にはしない”といった発言で嫌な予感がしていたが的中。
 完成した作品は、新たな世界観がある訳でもない「ボーンシリーズ」の劣化版。

 話がよく分からないのはシリーズの特徴でもあるから、まあ許すとしても、アクションが何だかわからないのは致命的。
 カットを細かく短くすることでスピード感を出そうとしたのだろうが、逆効果。せっかくやっているアクションが軽く見える。
 劇場のシーンなど、映像に凝ったところが随所にあるが、上手くいっているところと失敗しているところとバラバラ。
 特にタイトル前のストップモーションや、場所名のテロップには、センスを疑う。

 一方、ボンドの暴走ぶり、マチスの死、ボンドガールとの別れ、ラストシーンなどの情緒的なシーンでは、引き込まれるものがあり、演出の手腕を感じさせる。
 前作「カジノ」で初めて垣間見れた、”敵の弱み”が、今作でも見られるのが興味深い。

 輸送機vs戦闘機アクションが中盤のクライマックスで、結構魅せているが、戦闘機を出すなら、伏線が欲しいところ。
 ブサめのサブボンドガールがいい味出している。
 良い所と悪い所を兼ね備えた、まあ、低めの異色作でしょう。
 ラストのガンバレルは斬新だった。
●極私的注目点
・劇場でトイレのドアを引っこ抜くボンド。
・ボンドとフィールズのホテルでのやり取り。
・マティスに頼るボンド。心配するマティスの愛人。
・マティスの死のシーン
・突然の輸送機vs戦闘機+ヘリの空中戦。
・敵グリーンを殺さず、砂漠に置き去りにするボンド。
・ボンドに「サンキュー」と言うカナダの女性諜報員。
 
■ドキュメンタリー作品
エヴリシング・オア・ナッシング:知られざる007誕生の物語
Everything or Nothing: The Untold Story of 007

2012年 英

監督/スティーヴン・ライリー
プロデューサー/ジョン・バツェック、サイモン・チン
脚本/スティーヴァン・ライリー、ピーター・エテッギ
撮影/リチャード・ヌメロフ
編集/クレア・ファーガソン

●96分
●007映画に関係したスタッフ、キャストらのインタビューと、007映画の各シーン、またスナップ映像、写真など。
 「スカイフォール」日本公開直前の2012年10月開催「第25回東京国際映画祭」で上映された007シリーズのドキュメント映画。現在は、有料放送やブルーレイで見ることができる。

 このドキュメント作品の面白いところは、インタビューに答えている関係者の心情を007シリーズの映画の各シーンの映像を引き合いに出していること。例えば、「彼らはそのことで喜んだ」という話が出ると、007シリーズのある作品の”喜んでるシーン”を映像として出す。
 さぞかしこの「エヴリシング・オア・ナッシング」の編集作業は楽しかっただろうと推測します。担当者が007マニアだったらなおさらだろうと思いますね。

 もうひとつ、この作品の愛らしいところは、全て、007シリーズのサントラから音楽を付けていること(音楽の話でサントラ以外もあります)。007ミュージックファンとしても実に楽しめる作品になっています。

 まあ、当然というか、イアン・フレミング誕生の話からこの作品は始まります。そして原作の舞台となる冷戦、小説のヒットと映画化権・・。基本的に時系列に沿って話は進みます。

 見どころはやはり、コネリーとイオンプロの確執、マクローリーとイオンプロの闘い、サルツマン脱落、そしてそれらの和解。ボンド俳優の選考における軋轢・・。コネリーとブロッコリの最後の会話は感動的でもあります。

 本来はもっと1作1作に事件があり、感情のぶつかり合いがあるはずですが、全作出している訳ではありません。なにしろ原作含めれば60年以上の話ですから、後半、だいぶ端折っているのがいささか残念ですが、ドキュメンタリーで1時間半超えるときついでしょうね。ファンならあっという間のおよそ1時間半です。
 
2012年ロンドンオリンピックの開会式
『幸福と栄光を』Happy and Glorious,
 2002年 英 
共同監督/ダニー・ボイル、アンダーワールド
製作総指揮/アンソニー・ウェイ
出演/ダニエル・クレイグ、エリザベス2世
協力/イギリス王室

●動画:6分15秒
●https://youtu.be/1AS-dCdYZbo
 下記、「wikipedia」より抜粋編集

 2012年ロンドンオリンピックの開会式の第一部の終盤、ダニー・ボイル監督の『幸福と栄光を(Happy & Glorious) 』と名付けられた映像が上映される。

 映像には、ダニエル・クレイグ扮するタキシード姿のジェームズ・ボンドが登場し、バッキンガム宮殿の女王の私室(本物=この撮影のために許可された)からエリザベス2世女王(本人)をエスコート。宮殿の外で待機していたヘリコプターに一緒に搭乗し、そのヘリがスタジアムに向かって飛行。

 ほどなく、リアルタイムのスタジアム上空に「ジェームズ・ボンドのテーマ」に合わせてヘリが登場。映像部分では、ボンドがヘリのドアを開け周囲の安全を確認したあと女王が降下し、ボンドもそれに続いた。

 リアルタイムのスタジアムでは、イギリスの国旗をあしらったパラシュートが開き、2人が降下。実は、リアルタイムのスタジアムに現れたヘリに乗っていたのは、ボンドと女王に扮したスタントマンで、映像部分で降下した女王もスタントマン。映像とスタントを融合させた演出となった。

 「ジェームズ・ボンドにエスコートされた女王陛下がユニオンジャックのパラシュートで会場入り」という演出に観衆が驚愕したその直後、本物の女王がエディンバラ公とともにスタジアムの貴賓席に登場。そして、イギリス国旗が掲揚された。


●極私的注目点
・「007 スカイフォール」世界公開直前で、最高のプロモーションになっただろうと思う。
・女王陛下とこれだけ接見できる”役柄”は、ジェームズ・ボンドだからこそだろうと思います。・英国がいかに「007」を英国のモノとしプライドを持っているかが分かります。
  
■ 第23作 007 スカイフォール  
Skyfall  
2012年 英・米
監督/サム・メンデス
製作総指揮/アンソニー・ウェイ
製作/マイケル・G・ウィルソン、バーバラ・ブロッコリ
脚本/ジョン・ローガン、ニール・パーヴィス、ロバート・ウェイド
音楽/トーマス・ニューマン
主題歌/アデル
撮影/ロジャー・ディーキンス
編集/スチュアート・ベアード
プロダクション・デザイナー/デニス・ガスナー
タイトル・デザイン/ダニエル・クラインマン
●舞台/イスタンブール、上海、マカオ、廃墟島、ロンドン、スコットランド
●敵/ラウル・シルヴァ(ハビエル・バルデム)
●ボンドガール/イヴ(ナオミ・ハリス)
    セヴリン(ベレニス・マーロウ)
 この作品の最大の欠点は、内容の50%ぐらいを007ファンの思い入れ、知識に寄りかかっているところでしょう。したがって007に思い入れの無い鑑賞者は残りの50%の内容のみで楽しみを見出すしかすべが無い。

 「スカイフォール」は映画50周年どころか、原作のエッセンス、またフレミング原作後期の大河ドラマ的要素を大きく取り入れている。言わば、「007映画50周年記念」では無く「007小説60周年」が本当のところだ。
 まあしかし、これは映画なのだから、「007映画50周年記念」が妥当だろう。

 さらに、「ゴールドフィンガー」仕様のアストン・マーチン登場や、ラストのコネリー時代のMのオフィスなど、「007映画50周年記念」を映画のみならず、メタフィクションとして、虚構の話から飛び越え現実の現象を入れ込んだ「007社会現象50周年」としている。

 DVDなどでなまじっか007をかじった程度の観客は、「こんなのボンドででは無い!」などと言いだす場合があるが、では、あなたのボンドとは、または007映画とは、”何を、シリーズのどの作品を基準としているのですか?”ってことになる。

 50%の思い入れ部分で観客が楽しめなかったとすればそれは、観客の責ではなく作り手の責任であり、また通常の映画作品である一方の50%で楽しめなかったとしても、それも作り手の責任である。何故なら双方の50%は互いに寄り添いながら成り立っているからである。

 では。ファンの思い入れ知識によって支えられている50%以外の50%を映画として見た場合、冒頭のアクションを除き、求心力の弱い、薄い映画に映るだろう。

 これは鑑賞者の責ではないが、”「スカイフォール」を普通の映画として見る”こと自体が間違いなのです。この作品は、「007映画50周年」のイベントを舞台で見ていると捉えると良い。

 そもそも007映画というのは、スパイアクション映画ではない。宣伝でそのようにうたっていても、スパイアクション映画ではない。「スカイフォール」の公開前の公式ウェブサイトでは、”スパイ”や”アクション”という言葉は一切出ていない。

 「ボンド映画」というモノは、イアン・フレミングの発明をブロッコリ家が家業として加工して売っている伝統商品なのです。
 そのため、フィルムそのもの、ポスター、美術、出演者、場所、音楽メディア、アイテム、その他・・、それら全てが数年に一度提供されるお祭り(イベント)なのです。

 ですので、イベント参加者は、”今年のイベントはこう来たか!””あれは外したか・・””おー、新しい出し物か?!”などと楽しむのが正解。

 そして今回の「スカイフォール」は、”舞台”である。舞台としての「007」は、初っ端のシーンから証明される。奥から登場する主演、徐々に観客席に近づく、主演者の顔、スポットライトがあたる。50年の歴史を背負った、ジェームズ・ボンドである。

 プレシークエンスのアクションは、アクション映画セオリーに乗っ取ったと捉えて結構。この出来は素晴らしい。あとは全部、”舞台”である。

 舞台として象徴的なシーンをさらに1つ挙げておこう。上海の狙撃、その後の格闘。ここはクラゲですよ。ここの格闘シーンはほとんどカットを割って無い。観客は舞台の観客席から見ているのと同じスタンスだ。クラゲ(ネオンの動き)と格闘の影の美しさを堪能すればよろしい。

 「スカイフォール」でキンケイドがコネリーで無かった時点で、急激に”念”が落ちてる。キンケイドそのものがいらないし、水中格闘も蛇足。
 スカイフォールネタばれ以降は、もっと念を詰めるべき。他にも欠点はあるが、終盤の盛り下がりはまずいでしょう。

 ラストのマネペニーでバッチリ決めたから(これも「メタフィクション」だ)、「スカイフォール」は、シリーズの不死鳥のような作品になった。しかし、マネペニーが何者かを知らない観客にとっては、盛り下がったまま終わったアクション映画だろう。そう受け止められても仕方が無い。

 「スカイフォール」のダニエルボンドが良いのは、初っ端からグダグダ言い始めるところです。
 それまでの映画シリーズには無かったボンド描写。逆に言えば原作の重要な要素を映画は避けていた。脚本のジョン・ローガンは原作を徹底的に分析したのだろう。

 原作を知らない人は、「こんなのボンドじゃない」と思うのも当然。これまで映画は描いていなかった。ただ「スカイフォール」のボンドのキャラ設定の方が原作に近い。これで原作ボンドをたたき台にして幾らでも話を作れる。

 「スカイフォール」は、過去の成功体験を断ち切って次の展開に望んだ。過去50年のボンド映画の歴史をまとめ上げ、さらには原作のエッセンスを拾い上げ、そして、その上に、次の方向性を示している。これはボンド映画の歴史を知ってる鑑賞者じゃないと分からない。繰り返すが、これは裏返すと「スカイフォール」の最大の欠点である。

 イオンプロは脚本のジョン・ローガンと監督のサム・メンデスの作家性を取りこむことで、未来を開けた。「スカイフォール」には、明らかに次に進もうとする姿勢が見えた。今となっては「カジノ」の新機軸は、切っ掛けに過ぎず、「イオンプロ」の練習台みたいに映る。

 敵役のハビエル・バルデム、よくやってるが、もっとできたはずです。役者として出しきって無い。これは脚本の弱さだと思います。
 製作者ブロッコリ娘のバーバラが、シリーズをなんとか文芸路線に持ってこうとしたのは正解で、「スカイフォール」は歪だが花開いた。「舞台劇アクション大河ドラマ」という「ボンド映画」の中の新しいジャンルが登場した。

筆者(youon)が考えたラストのボンド対シルヴァ

●極私的注目点
・冒頭、すでに撃たれている仲間の諜報員を気に掛けるボンド。
・Mの車が止められ、「この車を何だと思ってるのよ!」と車から降りて警察官に詰め寄るM。その途端、目前のMI6本部が爆発。唖然とするM。
・Mの家で対面するボンドとM。2人の漫才のような会話。「当り前よ!あなたを泊める気なんかないわ!」
・美術館でのボンドとQの初体面。2人の漫才のような会話。発信機のギャグ。
・エレベーターに飛び乗るボンド。
・高層ビルの風の音。向かいのビルにたたずむゼブリン。
・ボンドのひげを剃るイブ。
・マカオのカジノに直立して船で入場するボンド。このゴージャス感、これぞ「ボンド映画」。
・カジノのボンドとイブのワンカットワンシーン。
・カジノでのゼブリンとボンドの緊迫した会話。
・シルヴァの登場の仕方と、ボンドを触るシルヴァ。
・廃墟島で銃を奪うボンドのキレのあるアクション。
・ロンドンの地下鉄でのボンドとQのやり取り。地下鉄に飛び乗って、ボンドのボケセリフ。
・Mにアストンマーチンを披露するボンド。ボンドのテーマ曲。M「乗りごこち悪いわね」。
・秘密裏に情報の餌をまくQとタナー、それを見つけたマロリー、胡麻化そうとするQとタナーだが、指示を出すマロリー。そのおかしさ。
・イングランドの風景・・。「スカイフォールの謎」の解明。
・ロンドンの風景を眺めるボンドにイブがMの遺品を渡す。その流れから、事務所でイブの自己紹介。ボンド新M(マロリー)から指示を受ける。ボンド「マイプレジャー」。ボンドのテーマ、ラストへ。
・他、多数。
  
■ 第24作 007 スペクター  
Spectre  
2015年 英
監督/サム・メンデス
製作/マイケル・G・ウィルソン、バーバラ・ブロッコリ
脚本/ジョン・ローガン、ニール・パービス、ロバート・ウェイド、ジェズ・バターワース
音楽/トーマス・ニューマン
主題歌/サム・スミス
撮影/ホイテ・ヴァン・ホイテマ
編集/リー・スミス
美術/デニス・ガスナー
タイトル・デザイン/ダニエル・クラインマン
●舞台/メキシコシティ、ローマ、オーストリア、タンジール(モロッコ)、北アフリカの砂漠、ロンドン
●敵/ブロフェルド(クリストフ・ヴァルツ)
●ボンドガール/マドレーヌ・スワン(レア・セドゥ)
 「スカイフォール」で一度、まっさら更地に戻した「ボンド映画」・・。さて次、24作目はどんな展開を見せるのかと大いに期待させたが、なんと、題材は、過去に使い古した”スペクター”・・。タイトルもそのまま「スペクター」ときた。

 今更、スペクターという旧態依然とした組織、これはもう他社「オースティン・パワーズ」で散々いじくられ食い尽くされたはず。これをどう現代に登場させようとするのか? 原案者のマクローリーとの裁判で決着が付き、”もったいないから”と言うのなら、あまりにも安易・・。

 結果はやはりと言うか、当然の帰着と言うか、”スペクターとは情報戦の頂点に立つモノ”、つまり、ハリウッド映画で一時期流行った衛星や街頭カメラ、PCなどの情報を全て取ってくるという、全く新鮮味のないありきたりな組織になった。そこにこれまた旧態依然とした、古き懐かしい「ボンド映画」のスペクター儀式、首領のブロフェルドを持ってくるものだから、何だか掴みどころのない、怖くも何ともない組織の出来上がり。スペクター会議のシーンなど、まるで「サンダーボール」の焼き直しではないか。

 これはプロダクションデザイナーの責任ではあるが、その何ともない組織スペクターの基地が、まるで下水処理場・・。もうちょっと何とかならなかったものかと思う。隕石のオブジェも生かし切れていない。

 これは推測だが、脚本のジョン・ローガンは、「スカイフォール」でボンドの内面(原作の未開発の題材)に突っ込めると踏んで、ボンド少年期の義兄の設定を作り、ボンドの内面の話を構想していたのではないか? そこに「イオンプロ」からの、「次はスペクターにします!」の大号令・・。

 ローガンは初期設定を捨てられないまま、ボンドとブロフェルドを義兄弟にしてしまたのではないかと推測します。じゃなきゃおかしいですよ。ボンドとブロフェルドが親戚である必然性なんで全然ないし、それが生きてくるのは、ブロフェルドが言う「カッコーの話」と、ラストでボンドがブロフェルドを撃つのを躊躇するところくらい。その躊躇も、”義理の兄だから”とも思えない。

 今回、脚本のローガンは、相当頭をひねったはず。当初の「家庭の話」と伝統ある「スペクター」の話とをどう現実味を出してエンタテイメントに仕上げるか?

 これも推測だが、ローガンは今度は原作でなく(原作は「スカイフォール」で分析しきった)、過去ボンド映画作品を分析したのではないかと思う。
 その結果、「ボンド映画」のエッセンスは、「バカ(おとぼけ)映画である」との結論に達したのではないか。

 話に、マドレーヌを含めた「家庭の話」と「スペクター」、「ロンドンの新MI5」は上手く絡まってはいない。が、見せ場であるアクションなどに「バカ(おとぼけ)映画」のエッセンスが散りばめられている。
 例えばそれは、ブロフェルドの「カッコー!」でスタコラ逃げるボンドや、ボンドカーの操作が良く分からない描写などに見られる。。
 ボンドが飛行機から逃げる敵に窓から挨拶を交わし、ボンドの飛行機が自爆、それに巻き込まれ敵が自滅と言う調子の良さ。ねずみとの会話なども、おとぼけがうまく転んだ代表ボンド映画「ダイヤ」を彷彿とさせる。
 駅にボンドらを迎えに来るクラシックカーと黒人運転手なども、お洒落なおとぼけ映画の典型だ。

 ただし、ジョン・ローガンは基本的に真面目なのです。馬鹿らしいことをしようとも突き抜けてはいない。それらを、メンデス監督が美しく映像化するものだから、出来上がりは、実に美しい中途半端なバカ(おとぼけ)映画になっている。

 プレシークエンスのワンショットワンカットも美しいし、ワンショットワンカットの基地爆破シーンも美しい。
 この「スペクター」という難題を綺麗にまとめたメンデスは見事だと思う。
●極私的注目点
・ワンカットワンシーンのプレシークエンス。
・会議でボンドを「カッコー」とからかうフランツ・オーベルハウザー(ブロフェルド)。
・ローマ市内で爆走するアストンマーティン・DB10。景色の美しさ。
・アストンマーティンの秘密兵器をよく分かってないボンド。
・カーチェイスの間にマネペニーとの会話。マネペニーのベッドに男がいる。
・ミスター・ホワイトとの取引(ミスター・ホワイトという役柄の花道)。
・アメリカンで酔うマドレーヌ。
・飛行機から挨拶するボンド。
・列車内の格闘とラブシーン。
・砂漠の中の駅にボンドとマドレーヌを迎えに来るロールスロイス。
・ワンカットの基地爆発シーン。
・崩れるMI6ビルからボートで脱出するボンドら。
・PPKを捨てるボンド。
・Qの工房に忘れ物を取りに来るボンド。ラスト、ボンドのテーマ。
  
■ 第25作 007 ノー・タイム・トゥ・ダイ
No Time To Die
 2021年 英・米
監督/
製作総指揮/
製作/マイケル・G・ウィルソン、バーバラ・ブロッコリ
脚本/
音楽/
主題歌/
撮影/
編集/
プロダクション・デザイン/
タイトル・デザイン/
●舞台/
●敵/
●ボンドガール/
 まだ初見ですので、細かいこと、分析は出来ていません。今執筆している時点では初見の感想のみ申し上げます。後日、分析等、改めて述べさせていただきます。

 「ボンド映画」としては極めて特殊、「特別編」と言ってもいい作品です。「一般人間ドラマアクション大作」として評価するのが順当ですが、「ダニエルボンドサーガ」としてもしっかり成り立っているので、映画史上としても特殊な作品とも言えます。

 原作から入っている筆者(youon)から見ると、原作の「007は二度死ぬ」からの要素が相当入っていると見ました。下記に箇条書きにしましょう。

 原作「007は二度死ぬ」では、
・ブロフェルドが日本の城で毒性植物園を営んでいる。
・ボンドがブロフェルドの首を絞め殺す。
・ボンドにキッシー鈴木との間に子供ができる(男児)。
・日本とソ連との記述がある。

 初見で気が付いたのは上記ですね。

 とにかく、演出がしっかりしてます。製作前、筆者はブログで、「実績が見えないフクナガ監督に不安を感じる」と書きましたが、撤回します。アクションにしろドラマにしろ、細かい描写もキチンと描けてる。ところが脚本はちょっと弱い。いろんな要素を詰め込んで、整理が出来ていない。特に敵は、マリックの演技に負うところが大きく、脚本上での役はできていない。

 音楽のハンズ・ジマーは本編ではさすがに手堅くこなしているが、サントラは案の定つまりませんね。「女王陛下・」をリスペクトするのは結構ですが、そのまま持って来るのはいただけません。これは脚本上の「時間はいくらでもある」にも言えます。

 過去作のオマージュをところどころで感じましたが、特に心震わせたのは、プレシークエンスの終わり、タイトルソングが流れる前に「ドクター・ノオ」でのモーリス・ビンダーの丸(●)デザインが表れたところですね。

 後日、追記いたします。
●極私的注目点

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